文具探しの一人旅 season-2-7

第7話|ゆらぐ気持ちと、草津の硝子筆

東京の朝はすでに蒸し暑く、アスファルトの照り返しに目を細めながら、上野駅から特急に乗った。
向かうのは草津。温泉で有名なこの地に、湯けむりのようににじむインクの筆記具があると聞いた。
“曇りガラスの万年筆”——そんな言葉に、今の自分が求めているものがある気がした。

長野原草津口駅からバスに揺られて40分。
硫黄の匂いが鼻をくすぐると、草津に来たことを実感する。
湯畑の湯けむりがもくもくと立ちのぼり、夏の強い陽射しをやわらかく包んでいた。

坂を上った先、小さな路地に入ると、硝子戸の奥に静かな灯りが見えた。
軒先にかかる木の看板には「硝筆堂」の三文字。どこか古道具屋のような、時間の奥にひっそり息づく店構えだった。

引き戸を開けると、ふわりと木と湯の香りが混ざったような空気が流れ込んでくる。
棚の中央に置かれたガラスケースの中、ひときわ淡い光を放つ万年筆があった。
乳白色の軸に、うっすらと青みがかかっている。

「それな、湯けむりん中で書くのが、いちばんええんよ。」

カウンターから顔を出したのは、白い割烹着姿の女性だった。
「んだ、湯に浸かって気ぃ抜けたときの言葉っつうのは、ちっとばか曖昧で、それがよかんべ。」
(そうそう、お風呂に浸かって気が緩んだときの言葉は、少し曖昧で、それがまたいいんですよ)

試しに紙に書いてみると、インクは最初ごく薄いグレー。
けれど時間がたつにつれて、うっすらと青みが差してきた。まるで曇りガラス越しに誰かの声を聞くような、そんなにじみ方だった。

「言葉ってな、はっきりしねぇ時のほうが、ほんとは本音に近ぇのかもな。」
(言葉ってのは、はっきりしないときのほうが、本音に近いのかもしれないね)

私は、その曇りガラスの万年筆と、吸入式の小瓶インク、半透明の便箋を選んだ。

宿は、湯畑から少し離れた高台にある木造の温泉旅館。
文具店とはまた別の方向にあり、途中には湯の花が浮かぶ川と、木陰の小道が続いていた。
自転車は借りず、あえて歩いた。

夜、風呂上がりの浴衣のまま、窓際で便箋を開く。
まだ熱の残る手でペンを取ると、言葉もどこかゆるんでいた。

曖昧なまま、ここに置いていく。

そんな一行が、曇りガラスのようにぼんやりと紙の上に現れた。
消えそうで、でも消えない。そのあわいが、今の自分にはちょうどよかった。

翌朝、早めに目が覚めて、もう一度その言葉を見返すと、インクの色が昨日よりもほんの少し濃くなっていた。

明確じゃない言葉も、時間をかけて、ちゃんと輪郭を持つようになるのかもしれない。
曇っているからこそ、見えるものもある。
そんなことを、草津の万年筆がそっと教えてくれた。

この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。
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