第1話|波の記憶、鎌倉とインク

東京に越してきて、ひと月。
部屋にはまだダンボールがいくつも残っている。けれど、なんとなく心がざわついて、片付けを放り出したまま、ふらりと鎌倉に向かうことにした。
都心の夏は、コンクリートの照り返しが強すぎて、言葉も思考もすぐに熱に溶けてしまいそうだった。
鎌倉駅に降り立つと、潮の香りが鼻をくすぐった。
空は夏らしい白さをまとい、どこか懐かしい風景が広がっている。昔一度だけ、家族で訪れたことがある気がするが、記憶は曖昧だ。
でも、こういう場所をずっと求めていたのだと思う。
澄んだ静けさの中で、ふと、時が止まったような気がした。
まばらに行き交う観光客を横目に、小町通りをゆっくりと歩いていく。
週末の喧騒も落ち着いた午後、土産物屋の合間に風が抜け、どこか懐かしい空気が漂っていた。
鶴岡八幡宮を前に、ふと脇道に逸れると、静かな通りに出た。
その途中、古びた木造の建物が目に留まる。看板には、英字で「Letters & Waves」とだけ書かれていた。
人の気配はない。それでも、どこか引き寄せられるように、私はその扉を押していた。
やわらかな鈍い鈴の音が、しずかに空気を震わせた。
中は涼しかった。扇風機の音と、どこかから聴こえてくる波の音が重なって、まるで時が止まったようだった。
並べられたインク瓶のひとつに、目がとまる。淡い水色。ラベルには、筆記体で“Sea Echo”とだけ書かれていた。
「波音のインクです。」
奥から現れたのは、柔らかなグレーのワンピースをまとった女性店主だった。
「紙に書いたあと、インクのにじみが少しだけ広がって、波の跡のようになるんですよ。」
試し書き用のカードにそのインクで一文字、書いてみた。
ゆっくりとにじんでいく線。決して滲みすぎず、でも確かに、波のように揺れる輪郭を残していく。
ああ、これだ。そう思った。今の自分を、そのまま映しているようなインク。
「言葉って、残そうとしても、すぐにかたちを変えてしまう。
でもこのインクは、その“ゆらぎ”も一緒に残してくれるんです。」
店主の声は、どこか海風のようにやさしかった。
私はそのインクをひと瓶買い、無地の便箋とともに包んでもらった。
帰り道、海岸に出ると、夕方の光が波を銀色に染めていた。
少しだけ腰を下ろして、波音のインクで一筆だけ、言葉を紙に置いた。
いま、ここにいることを
いつか、思い出せるように
東京での暮らしは、まだはじまったばかりだ。
だけど今日、この海辺の町で書いたこの一行が、何かの“はじまり”をそっと記録してくれたような気がした。
インクが乾くと、そこには確かに、波の跡が残っていた。
ゆらぎながら、それでも静かに確かに残るもの。
そういう言葉を、これから少しずつ集めていけたらと思った。

この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。
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