第9話|言葉の居場所、オーダーノートの夜

夕暮れの大阪駅、ホームにゆっくりと滑り込んできたのは、久しぶりに見るブルーの車体。
かつて全国を走った寝台列車の面影を残す、観光寝台の特別便——行き先は福岡。
夜の旅が好きだ。
目的地に向かうよりも、その途中にただ「運ばれていく」感覚が、静かで心地いい。昼の風景から解放され、車窓に映るのは闇と自分の輪郭だけ。
この夜は、文字に向き合うにはぴったりだった。
個室のライトを落とし、持ってきた黒いノートと白インクを机の上に置いた。けれど、何も書かずにただじっと見ていた。
そろそろ、旅の終わりが近づいている。
たくさんの文具と出会ってきたけれど、それらをどう綴っていくか、自分の言葉がまだまとまらずにいた。
翌朝、博多に着いたとき、空は穏やかに晴れていた。
まだ少し眠気の残る足取りで向かったのは、町の片隅にある「ノート専門の製本店」。手作りで一冊ずつ仕上げる“オーダーノート”があると聞いていた。
店内には、紙の香りがふわりと漂っていた。並んだサンプルノートの中から、紙質やサイズ、綴じ方、表紙の素材、インクとの相性まで、細かく選べるようになっていた。
まるで、自分自身の内側をひとつずつ確かめていくようだった。
「どんなことを書きたいノートですか?」
応対してくれたのは、落ち着いた声の店主だった。
私は少し迷ったあと、「まだわからないんです」と正直に答えた。
「それなら、“わからないことを書くノート”にしてみませんか。」
その言葉に、ふっと肩の力が抜けた。
何を書くかを決めることよりも、「何を書いてもいい」と思える場所が欲しかったのかもしれない。
選んだのは、生成りの布張りの表紙に、無地の上質紙を綴じたB6サイズのノート。角が少し丸く、手に収まりのよい形。
インクのにじみ方がやわらかくて、文字が浮かぶように見える。
背表紙の内側にだけ、金の箔押しで一行だけ入れてもらった。
for the words I haven’t said.
まだ言葉にならないもののために。
受け取ったノートは、まるでまだ誰にも読まれていない手紙のようだった。
それを抱えて歩く帰り道、ほんのりあたたかく、そして少しだけさみしかった。
旅で出会った文具たちは、どれも“書く”ことを促してくれたけれど、
このノートは、“まだ書かなくてもいい”と微笑んでくれるようだった。
夜、大阪行きの新幹線の中。
ノートの1ページ目をめくって、ペンを走らせた。
「わたしは、まだ旅の途中です。」
たったそれだけの文章。けれど、その一行が、心の底にすとんと落ちた。

この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。
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