文具探しの一人旅 season-1-8

第8話|白いインク、雪のノートに

神戸空港の展望デッキから見える海は、春の光にきらめいていた。
朝一番の空港の静けさが、旅の始まりにちょうどいい。
新千歳行きの飛行機を待ちながら、私は手帳をめくり、「雪のようなインク」という走り書きに目を落とす。

——雪を、書く。

そんな不思議なインクが、札幌のとある工房にあるという。誰かに伝える言葉ではなく、自分の中にそっと積もる言葉のためのインク。
それは、旅の中で出会いたいものに、まさにぴったりだった。

約2時間のフライト。窓の外に広がる北海道の大地は、まだところどころに白い肌を残していた。
新千歳空港に着くと、風は冷たく、けれどどこか澄んでいた。大阪や神戸の春とは違う、静けさをまとった季節が、ここにはまだあった。

札幌市内に向かい、市電を乗り継ぎながら住宅街の中へ。
目指していたのは、「ink & quiet」という名の工房兼ショップ。白い木の外壁と、小さな看板。その文字も、雪のようにひっそりと佇んでいた。

中に入ると、空気が変わった。
白を基調にした店内には、手書きのラベルがついたインク瓶が並び、棚の奥には厚手のノートや筆記具が静かに呼吸していた。

「これが“雪のあと”という白インクです。」

店主の女性がそう言って手渡してくれた小瓶には、ほんのり乳白色の液体がゆれていた。光にかざすと、淡い青みがさりげなく混ざっている。

黒い紙にインクを落としてみると、すぐには文字が現れず、数秒してから、ふわりと白が浮かび上がった。
まるで夜に降り積もる雪のようだった。静かで、やわらかくて、だけど確かにそこにある。

「はっきり伝えるためのインクではありません。
 心にだけ、残すためのものかもしれませんね。」

その言葉に、私は深く頷いた。
旅をしながら、いくつもの言葉を書いてきた。でも、実は言葉にならなかったものの方が多かった気がする。
誰にも話さず、ただそっと抱えていた記憶や想い。そういうものこそ、この白いインクで残しておきたいと思った。

選んだのは黒のハードカバーのノート。黒無地のページに、白いインクで、線を引いた。
まるで雪の上に足跡をつけるような、慎重で丁寧な動作。言葉が“書かれる”というより、“置かれていく”感覚があった。

宿に戻った夜、窓の外では雪がほんの少し舞っていた。
私は静かにペンを取り、こう書いた。

書けなかったことを
書かないまま
そっと残す ——そんなページがあってもいい。
白いインクは、語らない想いを、優しく照らしてくれていた。

この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。
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