第8話|風のまわりに、葉山のスタンプ

逗子駅で電車を降りて、バスに揺られながら葉山方面へ向かう。
車窓の向こうには、ゆるやかな海の気配と、少しだけ秋の色をまといはじめた空。
今日は日帰りの旅。誰かと話すでもなく、何かを書くでもなく、ただ風を感じる時間がほしかった。
海がちらりと見える路地に、小さな白い建物があった。
看板には手書きで「カゼノカグ」とある。文具屋とも雑貨屋ともつかない名。
けれど、なぜだかその名前に惹かれて扉を押した。
店内は静かだった。
壁に吊られたモビールが、エアコンの風にかすかに揺れている。
木の棚には、カードやスタンプ、封筒やリボンといった紙ものが、まるで風景のように並んでいた。
その一角に、不思議な装置があった。
小さなスタンプ台と、羽根のようなパーツがついたスタンド。そしてガラス瓶に入った透明なインク。
「それ、風で押すスタンプなんです。」
声をかけてきたのは、リネンのエプロンをつけた女性店主だった。
「スタンプ面が、風を受けると自然に回って、印影を紙に残していくんですよ。」
私は思わず「えっ」と声を漏らす。
説明によると、微風で回転する機構のスタンプヘッドが、風の強さや向きに応じて押し方を変えるのだという。
目の前の模様を見ているうちに、まるで風そのものに触れたような、不思議な感覚に包まれていった。
「書かない日も、誰かに気配を伝えたいときって、あるじゃないですか。」
そう言って、店主は封筒の隅に押した一つの印影を見せてくれた。
円のような、不完全な渦のような、何かが通りすぎた痕跡。
でも、それは確かに“いまここにいた”という印だった。
そのインクスタンプと、風に透ける薄紙のカードセットを手にした。葉山の風がつくるかすかな跡を、そっと連れて帰りたいと思った。
海沿いのベンチで、封筒をひとつ取り出す。
スタンプをセットし、しばらく待つと、ふわりと風が頬をかすめ、羽根がくるりと一回転。
紙にひとつ、まあるく淡く跡がのこった。
これは、わたしが今日ここにいた証。
そんな言葉を添えたくなった。
それは誰かに出す手紙ではなかった。けれど、未来の自分に向けた記憶の痕跡のようなものだった。
封筒をそっとバッグの奥にしまった。
見た目には何も変わらないけれど、その紙の中には確かに、葉山の風が一つ、そっと収まっていた。
書くことだけが伝える手段じゃない。
ただそこに在るということも、時には十分なメッセージになる。
そんなことを思いながら、電車の窓から空を見上げた。
雲が風に押されて、ゆっくりとかたちを変えていた。

この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。
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